先週末、15年来の友達の、2人目のベイビーに会いに行って。
そこで見せてもらった、成長記録のアルバム。
かわいいシールや、心のこもったメッセージの添えられた、写真たち。
それで、ふと思ったのだけれど、
私、自分の生まれた頃のアルバムって、ちゃんと見たことがなかった。
小さい頃には既に「壊れちゃった」だかなんだかで、
かろうじて分解してしまった3ページほどしか、目にしたことがなかった。
ま、歳の離れた3人目ともなると、そんなモンなのかな…
物心ついたときには、そんな風に考えていた。
ずいぶんと、冷めた子供だったと思う。
けしていい加減に育てられたとは思っていないし、
十二分に手をかけてもらったとは思うけれど、
なんだか私が生まれる前に、既に"家族"は出来上がっていたんだ。
漠然とだけれどそう納得していた。
けれど、それに気付かないふりをしていた。
自身の中の思考は、言葉にしてしまうと途端に鮮やかになってしまうから、
ずっとずっと、気付かないふりをしたまま大人になった。
だからきっと、どこかで家族を冷めた目で見ていたんだと思う。
常に一定の距離を保っていた。
傷つかないための、自己防衛。
大人になって日々は過ぎ、
花粉症のように、溜まっていたものが溢れてしまった2年前。
涙と一緒に、母親に投げつけたそれまでの想い。
傷つけてしまった、という後味の悪さだけが残った。
縮まらない距離も、そういうものとして受け入れているつもりでいた。
そして。
つい30分ほど前の出来事。
明後日からの旅行のためスーツケースを降ろしに、久しぶりに屋根裏へ。
スーツケースを降ろしている間に上っていってしまった猫2匹を追い、
再び屋根裏への梯子を上ると、以前より片付けられた一角が目に入った。
いくつもの古びたアルバム。
その一番上に置かれた表紙には、私の生年月日の刺繍。
梯子に突っ立ったまま初めて目にする自分のアルバムを開くと、
1ページ目には、私を内側に秘めていた頃の、お腹の大きい母の写真。
そして「みんなあなたを待っていました」というメッセージ。
バカみたいだけれど、本当にバカだと思うけれど、
今、ようやく、自分がちゃんと愛されていたことに気付きました。
ずいぶん親不孝だったな、私。
明日の朝、母に「ありがとう」って伝えよう。